血だらけの手
あけましておめでとうございます。
先日、クリスマス特伝のチラシ配布に行きましたが、正直に言えば、私はあまり行きたくありませんでした。その日の朝からとても忙しかったから、もう疲れていましたが、せめて100枚配ることにしました。70枚を配ったところで、足がとても痛くなったので、やめたい気持ちが尚強くなりました。
その時でした。手の裏を見ると、血が流れていました。ポストにチラシを入れた時、手が切れたのでしょう。私はすぐハンカチを出して、手の裏を拭きました。チラシはあと30枚残っていましたが、私は心の中で叫びました。「もういやだ。疲れているし、足が痛い。その上、手が切れた。もういやだ。や~めた!」しかし、血が流れている自分の手を見ながら、私はもう一人の人の血だらけの手を思い出しました。
それは十字架につけられた主イエスの手でした。ローマの兵隊たちがキリストの手を十字架の上において、その手に大きな釘を打ち込んだ時、その痛みは想像できないほどの痛みだったでしょう。十字架が上げられた時、イエスの清い手から血が地面にポツポツ落ちました。
マタイ27-29によると「兵隊たちはいばらで冠を編み、キリストの頭にかぶらせたので、頭からも血が流れていました」また、ヨハネ19-1に「そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした」と書いてあるので、イエスの背中からも血が流れていました。さらに、ヨハネ19-34によると、「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した」と書いてあるので、キリストのわき腹からも血が流れていました。もちろん、手と同じように十字架につけられたイエスの足からも血が流れていました。
私たちを救うために主イエスはご自分の血を流して下さいました。主イエスは、私たちに永遠の命を与えるために、「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」ピリピ2-8 十字架の上で私たちの身代わりになったイエスの血まみれの姿は私たちが覚えるべき姿です。
新年の迎え、私達は、様々な試練や逆境に遇うかもしれません。そんな時、チラシ配布の途中でやめたくなった私と同じように「もうやめた」と思う様な時、再び福音書を読んで主イエスの血だらけの姿を見ましょう。
6 番 と 9 番
小倉駅の近くの銀行に行った時、私は車を駅の前の駐車場の6番の所に入れました。銀行の用事が終わってから、私は駐車所に戻って、精算機の〔6〕と〔精算〕のボタンを押しました。「料金は100円です」というお知らせがあったので、私は100円を入れて、6番の所に行きました。
お金を払ったのに、車をふさいでいる鉄の棒がまだあがっているままでしたから、車を出すことが出来ませんでした。私はちょっと怒った声で「これは一体何のことですか。お金をちゃんと払ったよ」とつぶやきました。その棒が下がらない原因を考えながら、私は番号を確かめました。そしたら、原因が分かりました。車を止めた時、私は番号を逆さまに見ていました。6番ではなかった。9番でした。
私はもう一度精算機に戻って、〔9〕と〔精算〕のボタンを押して、100円を払ってから帰りましたが、本当はそこに残って、6番の車の持ち主の顔を見たかった。〔6〕と〔精算〕のボタンを押して、「料金は0円です」と言われた時、彼はびっくりするでしょう。
もちろん私は彼の駐車の代金を払うつもりではありませんでした。6番と9番を間違ったからそうなりました。しかし、聖書によると、イエス様がわざと私たちの罪の代価を払って下さいました。イエスの十字架による死は単なる事件や偶然ではなく、全世界の人々をその罪から救う神様の計画による出来事でした。
イエスがお生まれになった夜、羊飼い達の前に現れた御使いは彼らにこう言いました。「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。今日、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」ルカ2-10~11
イエスは十字架の上で「殺された」と言えるかもしれませんが、本当はイエスが自ら喜んで私たちの罪の代価を払って下さいました。ヨハネ10-18にイエスは言われました。「だれも、わたしたちからいのちを取った者はいません。わたしたちが自分からいのを捨てるのです」
スリッパがヨーグルトでいっぱい!
毎朝私は必ずヨーグルトを食べます。店で買う普通のヨーグルトのパックには砂糖が入っているし、とても小さいから、私は砂糖が入っていないプレーンヨーグルトの大きいパックを買って、半分を大きなボウルに入れてスイートナーをかけて食べます。
普通私は朝食を食べながら新聞を読みます。新聞を開いてから私はヨーグルトが入っているボウルを左手に持って、スプーンを右手に取り、そしてそのページを読みながら食べます。新聞のページをめくる時私はボウルをテーブルの上に置きます。
しかし、ある朝ページをめくるためにヨーグルトでいっぱいになっていたボウルを置こうとした時、私は不注意にそれをテーブルのない所に置いてしまい、ボウルは私の足の真上に落ちました。下を見ると足はヨーグルトで覆われていたし、スリッパはヨーグルトでいっぱいになっていました。滅茶滅茶になっているスリッパと床を見ながら私は自分の油断を責めました。掃除も大変でした。
やはり、ボウルを置く時にそれを支える物の上に置かないと後で後悔することになります。人生もそうです。人生の支えになるものがなければ、その人生は滅茶滅茶になる時が来ます。問題は丈夫な支えになる物が何であるかです。お金、持ち物、健康、仕事、他の人間などを人生の支えにすれば、突然起こる出来事や事件や天災や社会の状況によって、そのような支えが倒れてしまったとき人の人生は滅茶滅茶になってしまいます。
聖書の詩篇18篇の中でダビデは自分の人生の大変な状況を次のように記録しています。
「死の綱は私を取り巻き、滅びの川は私を恐れさせた。黄泉の綱はわたしを取り囲み、死の罠は私に立ち向かった」詩篇18-4~5こんな状況の中に置かれたダビデは何をしましたか。「私は苦しみの中に主の呼び求め、助けを求めて我が神に叫んだ」6節 ダビデがそうした時、どうなりましたか。「主は私のささえであった。主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された」18~19節
人生がヨーグルトでいっぱいになったスリッパのようになった時、いつまでも私たちを支えて下さる主の御名を呼び求めましょう。
まずい! [グリーン・ビーン・キャセロール]
先月27日に私はアメリカの「感謝祭」を私と同じようにアメリカから来られている宣教師の御家族と一緒に祝いました。奥様は素晴らしい食事を作って下さいました。七面鳥・マカロニ・マッシュポテト・クランベリーソース・カボチャパイ等の料理がありました。また[グリーン・ビーン・キャセロール]と言う豆の料理もありました。
感謝の祈りの「アーメン」と聞いたら私は自分の皿をいっぱいにしてガツガツ食べ始めました。どの料理もとても美味しかったけど[グリーン・ビーン・キャセロール]を食べ始めると私は「こんなにまずいグリーン・ビーン・キャセロールを食べた事がない」と思いました。あたかも紙を食べている感じでした。
ちょうどその時、奥様は言いました。「ボード先生あなたはナプキンを食べているよ」よく見ると、やはり[グリーン・ビーン・キャセロール]の下にナプキンがありました。私はおいしそうな食事を食べるのに慌てていたので奥様がもうすでにナプキンを皿に置いていた事に気がつかずにナプキンの上に[グリーン・ビーン・キャセロール] をのせて一緒に食べていました。
「おいしい」が「まずい」に変わった時の私の顔を想像する事ができるなら多くの人々の心をも想像できるはずです。彼らはこの世の快楽を見て「楽しそう」と思うが、実際にそれを味わってみると心の中に「まずい」と言う味が残ります。
聖書にソロモンと言う人の言葉が次のように書いてあります。「私は心の中で言った。『さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい』しかし、これもまた、なんとむなしいことか」伝道 2:1「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした」伝道2:10「すべては空しく、風を追うようなものだから」伝道 2:17
快楽を味わう事は[グリーン・ビーン・キャセロール]と一緒にナプキンを食べるような事ですが、心の中においしい味を残す事もありません。神様と神様の御言葉です。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ」詩篇34:8「主の御教えは、人の心を喜ばせる」詩篇34:8「それらは、蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い」詩篇 19:10
ボード先生!ボード先生!
私が北九州教会行くたびに牧師の娘さんMちゃん(4歳)は喜びながら私を迎える為に玄関に走って来ます。彼女の顔はとても嬉しい顔です。
なぜなら、Mちゃんは私が彼女と遊ぶ為に教会に来ていると思い込んでいるからです。婦人会の後で英語を教える事が私の本当の目的ですが、Mちゃんは、そう思っていません。
英会話が終わるとMちゃんは、直ぐ来て私の腕をたたきながら「ボード先生!ボード先生!」と私の注意をひこうとします。彼女は決して「ボード先生!」と一回だけでなく、必ず「ボード先生!ボード先生!」と呼びます。
2~3秒以内に私が大人との会話をやめて、彼女に返事をしないと、彼女は、また私の腕をたたいて「ボード先生!ボード先生!」と私を呼びます。私が牧師と婦人達と話す事をやめて彼女と遊ぶまで彼女は私の腕をたたく事と私を「ボード先生!ボード先生!」と呼ぶ事を繰り返します。
神様に祈るクリスチャンは、4歳のMちゃんに正しい祈り方を学ぶ事が出来ます。
マタイ7-7~8「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」と聖書に書いてあります。
学者達の説明によると、この箇所の動詞の時制は継続する事を表しているそうですでからマタイ7-7~8を次のように読む事が出来ます「求め続けなさい。そうすれば与えられます。捜し続けなさい。そうすれば見つかります。たたき続けなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める続ける者は受け、捜し続け者は見つけ出し、たたき続け者には開かれます」
「ボード先生!ボード先生!」と私に遊ぶ事を求めるMちゃんと同じように、私達も「神様!神様!」と主の御名を呼び求め続けましょう。
「たゆみなく祈りなさい」コロサイ4-2
「絶えず祈りに励みなさい」ローマ12-12
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