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オ~オォ~! 

suisen 先日、台湾旅行に行った時の出来事です。
今回、私がお世話になった台湾の宣教師の車にはレーダー・センサーが付いています。
(台湾では、この事が許されています)多くの道のあちこちにスピード違反をする車の写真を撮るカメラが設置されてあります。運転手がスピードを出し過ぎて、そのカメラに近づくとそのセンサーは警告を発する様になっています。
もちろん機械は中国語でしゃべるので、私は、ほとんど何も分かりませんでしたが、その中で一つの言葉が分かりました。機械は女性の可愛い声で「オ~オォ~!」と宣教師にカメラの存在を知らされました。何故か分からないが、私はその「オ~オォ~!」と言う声が気に入りました。その声を聞きたいがために、時々私は宣教師にわざとスピードを出してもらいました……。


そして、帰国した今でも台湾に電話する時、私は「もし、もし」と言わずに「オ~オォ~!」と言ったら、台湾の宣教師は、笑いながら「オ~オォ~!」と応えます。


実は、教会にも私達を警告を発するレーダー・センサーが設置されています。それは「牧師」と言います。教会の霊的な状態が良くない時、牧師の役目は「オ~オォ~!」と警告する事です。


使徒パウロは、そうしました「兄弟たち。あなたがたに勧告します」Ⅰテサロニケ 5:14

英語の聖書に「勧告」は「warn」となっています。「warn」の意味は警告する事です。


もちろん、牧師の声は台湾の宣教師の車に付いている機械の様な可愛い声ではないかもしれません。私達を責める叫び声になる場合もあり、また、涙をためた声になる時もあります。

使徒パウロは「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにエペソの教会の長老達を訓戒しました」使徒 20:31

 

すべての教会員の責める声であっても、或いは一人の教会員を訓戒する声であっても牧師の「オ~オォ~!」を聞く時、その警告の言葉に注意深く聞き従いましょう。

 

なぜ、誰も電話に出ないの?  

アメリカの宣教事務局に電話した時、電話は何度も呼び出しているけれど誰も出ませんでした。私は「へんだなぁ~」と思いました。なぜなら普通受付の方が直ぐ電話に出るからです。
「電話番号が間違っているかなぁ~」と思いながら私は電話を切って、そしてかけ直したけど、やはり誰も出ません。電話は引き続き5回・6回・7回と呼び出し音が鳴っているけれど誰も出ません。
宣教事務局に大事な事を伝えたかったから、私は、だんだん誰も電話に出ない事に対して腹立たしく思いました。イライラしながら、私は不平を言いました。「なぜ、誰も電話に出ないか?受付の方はいったい何をしているのだろうか?事務局に勤めている他の人とおしゃべりをやめて、ちゃんと仕事したら‼」
ちょうどその時、私は机の上にあるアメリカのカレンダーを見て、なぜ誰も電話に出ないかが判明しました。日本では、その日は、普通の日ですが、アメリカでは、その日は祝日になっていました。宣教事務局は、いつも祝日はお休みです。雪ウサギ
次の日に私は宣教事務局に連絡する事が出来ました。

この経験を通して私は一つの事を感謝する様になりました。それは天国に祝日がないと言う事です。私が祈りを通して天国に電話すると「すみませんが今日、神様はお休みです。また、明日祈って下さい」と言う留守番電話につながることはありません。

聖書によると神様は必ず私達の祈りによる電話に出て下さいます。

詩篇86-7に「私は苦難の日にあなた(主)を呼び求めます。あなたが答えてくださるからです」

何月何日であっても、また何時であっても神は御自分を信じている者の電話に出て下さいます。この事を確信している信者の心は安心する事が出来ます。

「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」 詩篇 55-17

イ ヤ な 音 

午前7時ごろでした。早く病院にいって名前を書かないと、薬を取りに行く時、長く待つことになるから、私は車にのって急いで車庫からバックしました。次の瞬間にイヤな音が聞こえました。今まで何回か聞いた音、つまり車のフェンダーが塀をこする音でした。flower2
うちの車庫は狭いし、両側にコンクリートブロックの塀があります。今まで車が塀をこすることは幾度もありました。しかし、今度車が塀をこする音は今までのどの時よりもイヤな音でした。なぜなら、車は私が16日前に買ったばかりの車だったからです。中古車でしたが、買った時に傷は一つもなかったのですから、私は泣きたいほど困っていました。
後で修理を三つの整備工場で見積もってもらったら、一番安い所は4万円でした。今まで車の傷の修理に使ったお金を取り戻すことができたら、おそらく私はお金持ちになるでしょう。
車が車庫の塀をこする度に、原因はいつも同じです。私が あわただしい出入りをするからです。車庫に入る時も出る時も、車の両側をよく見ながら、ゆっくり行ったら、車に傷を付けることがないでしょう。
多くの場合、私たちの心につく傷の原因も同じです。すなわち、私たちの歩みがあわただしい歩みになればなるほど油断する可能性がたくさんあります。

 

箴言21-5に「すべてあわてる者は欠損を招くだけだ」と書いてあります。


私たちの心に心配をかける報告を聞く時、気をつけないと、私たちの最初の傾向は四方八方に走り回ることになるかもしれません。英語のことわざに「頭が切り落とされた鶏のように走り回る」という表現があります。頭が切り落とされた鶏はすぐ死なないでしばらく四方八方に走り回ります。その姿は何かの不幸にあった多くの人々の姿を現しています。
しかし、主イエスを信じている人は人生の出来事に反応する時、そのようなあわただしい反応をする必要はありません。

 

なぜなら、聖書の詩篇27-14に「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を」と書いてあるからです。英語も聖書に、「心を強くせよ」という言葉の代わりに「主は心を強くしてくださる」と書いてあります。

 

ポストの中の岩 

もし、皆さんが私の家のポストの中を見たら、驚くに違いありません。なぜなら、私のポストの中に重い岩があるからです。
ポストを買った時に、台も付いていましたが、その台を立てる場所がなかったので、私はポストを家の前の塀の上に置きました。数ヶ月間そのままでした。しかし、ある日私は台風が来ると聞きました。私はポストと郵便が飛ばされることを心配したので、ポストの奥のほうに岩を置きました。そんなに大きな岩ではありませんが、かなり重い岩です。風は強かったが、ポストは動きませんでした。
私がポストの中にその岩を入れてから、もう数年経ちました。数回台風がきましたが、岩に支えられているポストはまだ残っています。寒椿


私のポストを壊す力を持っている嵐が来たと同じように、私たちの人生を壊す力をもつ嵐もきます。すべての人間は遅かれ早かれ事故、病気、失業、失敗などのような嵐を経験します。しかし、そのような嵐が来た時、私たちは主イエス・キリストという巌の上に立っているなら、恐れる必要はありません。


詩篇62-6~7にダビデは書きました。「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。」

また、詩篇40-1~2にダビデはこの証しをしました。「私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた」


私たちの巌となるキリストを信じることこそ揺るぎない人生の秘訣です。周りに心にかかることが起こっても、確かな歩みをすることが出来る人は堅固な巌であるキリストの上に立っている人です。


♪望みはただ主の血と義にあるのみ♪

♪いかでか後の者頼りとなすべき♪
♪イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ♪
♪ 他は砂地なり♪

(聖歌 236)

 

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