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もうひとつの目 

三ツ目犬 この事を証明する事が出来ませんが、私は使徒パウロが少なくなくても一回は、北九州市小倉南区でチラシ配布をしたと思います。なぜなら、彼はピリピ人への手紙3-2「どうか犬に気をつけてください」と書いたからです。

もちろん、上記の話はジョークですが、最近私は南区の吉田と言う地域でチラシ配布をしています。吉田に住んでいる多くの人々は犬を飼っているから、そこでチラシ配布をする度に、私は犬に驚かされる事があります。
先日、ある家のポストに近づいた時、突然その家の犬は門まで走って来て、私に向かって吠えはじめました。ポストは門のすぐ側だったから、私は左の目で犬を見て、右の目でポストをみました。残念な事で、階段を見る目がなかったので、私は階段に躓いて道に転がりました。やはり、私にもう一つの目が必要です。(もし、私にもう一つの目があったら、宇宙人に見えるかもしれません)

人生の道を歩く途中、私達にもう一つの目が必要になるときがあります。四方八方から嵐が襲いかかると、私達は躓いて転がる危険に遇います。日本の多くの神々に助けを求めても無駄です。なぜなら、聖書に書いてある通りに、その神々は「口があっても語れず、目があっても見えません。」からです。(詩篇135:16)

しかし、クリスチャンにもお一つの目があります。私達が信んじている実の神様です。第Ⅱ歴代誌16:9「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」と書いてあります。

また、Ⅰペテロの手紙3-12「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」と書いてあります。キリストを信じる信仰によって義人とされた私達の上に注がれている主の目は私たちを正しい道に導いて下さいます。

「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住む」
詩篇25:12~13

看板にいつわりなし 

あしずり 博多南BBCの近くにレストランがあります。レストランの看板キャッチコピー「うまい、安い、ボリューム、満点」と書いてあります。その看板を見る度に私は思います。「とてもいい看板ですが、本当かな~?]
先月、博多南BBCの特別集会に行った時、私は数人と一緒にそのレストランで食事をしました。看板どおりでした。私が注文した酢豚定食は、とても美味しく、価格も安く、ボリューム満点で食べきれないほど多かった。私と一緒に行った方々もそのレストランに満点をつけました。★★★★★
やはり「うまい、安い、ボリューム、満点」と言う看板を出すレストランは、看板どおりの食事、すなわち、おいしくて安い、量がタップリある、お客さんを満足させる食事を用意する責任があります。

同様に、信仰の看板を出すクリスチャンに看板にいつわりなしの生き方をする責任があります。「私はクリスチャンです」と発表する人は、その言葉を証明する行動を周りの人々に見せなければなりません。聖書に「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」と書いてあります。(Ⅰヨハネの手紙1-6)  あしずり2

レストランの看板に四つの言葉が書いてありましたが、クリスチャンの看板に次の九つの言葉が書いてあるはずです。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」ガラテヤ人への手紙5-22~23この看板を私達の行動と態度を見て比べる人達は私達に満点をくれるでしょうか。

「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」
(Ⅰヨハネの手紙2-6)
私達の信仰の看板がいつわりない看板になるように、その看板にふさわしい歩みをしましょう。★★★★★


ピィー・ピィー・ピィー 

搭乗飛行機で旅をする時、私が必ず守る習慣があります。最後のボディチェックを受ける前に、私は時計を外し、お金と他の金属製品をカバンの中に一緒に入れます。それはゲート型の金属探知機を通る時「ピィー」と鳴らないためです。 
しかし先月、東京に行った時、機械は「ピィー」となりました。チェックを行っている人が私に「靴を脱いで、もう一回通って下さい」と言った時、私は「金属製品の物は全部カバンの中に入れたので、ピィーと鳴らないはずです」と抗議したけど、「とにかく靴を脱いで、もう一回通って下さい」と言われました。
「ピィー・ピィー・ピィー」 今度、「コートを脱いで、もう一回通って下さい」と言われました。 「ピィー・ピィー・ピィー」 次に、「上着を脱いでもう一回通って下さい」と言われました。「 ピィー・ピィー・ピィー」 私は心配のあまり、「どこまで脱がなければならないのだろうか?」と思った時、「もう行ってもいいよ」と言われました。私はかなり不満な顔をしながら、上着とコートを着て靴を履いてゲートに向かって行きました。


私達が天国に入ろうとする時、同じような経験に合います。「ピィー・ピィー・ピィー」私達は神様に抗議をします。「私は、できるだけ正しい生活をしましたよ!」しかし、主の返事はヨハネの福音書3-3に書いてある言葉です。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」


人の人生がどんなに立派な人生であっても、心に罪を一つでも持っているままでは天国に入る事ができないので、イエス・キリストを信じる事によって新しく生まれなければなりません。神様に遣わされた救い主であるキリストを受けいれる人の罪深い心はきよい心に変えられます。

 

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなります。」

Ⅱコリント5-17

 

キリストを信じる信仰によって新しく生まれた人は、天国の門を通る時、「ピィー・ピィー・ピィー」という音はありません。

 

ほんとうに主はよみがえった! 

Easter10 「私について来なさい」と言われた時、彼等は何もかも捨てて、イエスに従いました。(マタイ4:19・ルカ5:11)

12弟子は3年間イエスについて行きました。彼等は自分自身の耳でイエスのすばらしい教えを聞き、自分自身の目でイエスの奇跡を見ました。彼等は自分達のすべてての夢と希望をイエスの約束に望みをおきました。
しかし、ある晩、彼等が予想しなかった出来事が起こりました。兵士達はイエスを逮捕しました。その時、弟子達は恐れと混乱に陥て、逃げてしまいました。イエスは裁判を受けました。裁判を行った者達はイエスに何の罪も見つからなかったにも係らわず、キリストは死刑を宣告されて、十字架につけられました。
イエスが十字架の上で死なれた時、弟子達のすべての夢と希望もなくなり絶望となりました。彼等は自分達も死刑にされるかも知れないと思い、3日間彼等は部屋に入って、戸を締めて、恐れながら隠れていました。


3日目の夜に起こった事はヨハネ20:19-20に書いてあります。【イエスが来られ、彼等の中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼等に示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。】
その部屋を出た弟子達は変わっていました。よみがえられたイエスに遇ったからです。 自分達の目で生きておられるイエスを見た時、彼等の夢と希望も甦りました。彼等の恐れは勇気に変わりました。「彼等は、主イエスの復活を非常に力強く証ししました。」(使徒の働き4:33)


弟子達の証しはルカ24:34に書いてある言葉であったに違いありません。「ほんとうに主はよみがえった!」今日、イエスの復活を祝うイースターに、私達も声をあげて「ほんとうに主はよみがえった!」と賛美しましょう。そして、弟子達と同じ様に、私達もこの地において、よみがえられたイエスにある救いを力強く証ししましょう。

 

 

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