221 と S21

時間がかかったけど、私はやっと221番を見つけて部屋に入ろうとしました。しかし、部屋のドアを開けた時、私が最初に見た光景は他の人の荷物でした。「私の部屋に誰かがいる」と思った私は一瞬戸惑いました。チケットをその人に見せて、その部屋から出てもらう事も考えましたが、私はフェリーの係員に説明し、その人を私の部屋(221号室)から出てもらう事にしました。フェリーの係員を探している間に、私は自分のチケットをもう一度確認しました。 221番ではなく、S21番でした。目が悪い私にとって、「S」が「2」に見えたのでした。
S21番のチケットを持っていた私が221番の部屋からその客を追い出そうとしたならば、大変な事になっていたと思います。
しかし、私達の信仰の基盤となっている聖書の中に「S」が「2」になったら、もっと大変な事になります。ですから、マタイ5:18に書いてあるキリストの言葉は私達に安心を与えます。「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。」
英語の聖書に「一点一画」は「one jot or one tittle」となっています。 「jot」はギリシャ語の「iota」からきて、ギリシャ語のアルファベットの最も小さい文字です。ローマ字「i」です。「tittle」は「i」の上にある「•」です。わかりますか。神の御言葉は最も小さい文字である「i」とその「i」の上にある「•」まで守られています。
ルカ16:17にキリストは言われました。「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」
聖書は一画「•」まで神に守られているから、クリスチャンは確信を持って神の御言葉が照らしている道を歩む事ができます。
Ⅰペテロ1:23~25に書いてある通りです。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 (人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。)とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」
評判を守った私

Cherry Street BCにある私のシニア日曜学校のクラスの皆さんが私はゲームが上手だと聞いた時、すぐ私にチャレンジしたくなったので、私達は話し合って、ゲームをする時間と場所を決めました。(私は後でこの事が分かりましたが、私に勝つために彼らは集まって練習しました)まず、私たちは「PHASE10」と言うカードゲームをしました。私は勝ちました。次に、私達は「Mexican Train Dominoes」と言うドミノのゲームをしました。私は勝ちました。その晩、家に帰る一人ひとりの口から出る言葉は同じでした。「評判の通りですネ~」
ある時、キリストの評判を試す人々がいました。 ルカ4:22によと、「キリストが現れて福音を宣べ伝え始めた時、皆はキリストの口から出てくる恵みの言葉に驚きました。」また、マタイ7:28~29によると、「イエスがあの有名な山上の説教を語り終えられた時、 群衆はキリストの教えに驚きました。」
なぜなら、イエスが律法学者達の様にではなく、権威ある者の様に教えられたからである。
そして、ヨハネ7:14~15によると、キリストが宮にのぼって教え始られた時に、皆は驚いて言いました。「この人は正規に学んだ事がないのに、どうして学問があるのか?」
キリストの言葉を信じる人々がますます増えた時、パリサイ人達はイエスを捕らえようとして、役人達を使わしました。しかし、役人達はパリサイ人達の元に帰った時、彼らはキリストを連れて来ませんでした。「なぜ、あの人を連れて来なかったか」と聞かれた時、彼らは答えました。「あの人が話す様に話した人は、今だかつてありません」(ヨハネ7:46)すなわち、「あの人の言葉は評判の通りです」
「イエスは神の子である」という評判が段々と広まった時、それは一人の百人隊長の耳に入りました。イエスが十字架につけられた時、その十字架の正面に立っていたこの百人隊長は言いました。「この方はまことに神の子であった」(マルコ15:39)すなわち、「評判の通りだ」
今でも人の心を変えるキリストの力を試す人々は証ししています「評判の通りです」
小倉BBC HAPPY BIRTHDAY!

1985年6月のある日、7名(先生方3名、私の家族4名)は苅田町にある古い建物の2階に集まって、新しい教会を始める計画を立てました。私達は、心を一つにして、神様に苅田聖書バプテスト教会の祝福を祈りました。
私達は教会のスローガンとしてⅠテサロニケ1:3の言葉を選びました。「信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐」
最初の5年間、私達は忠実に伝道しましたが、望んでいる成長がありませんでした。それにかかわらず、主の御心を求めながら、私達は伝道を続けました。いよいよ6年目から救われる魂が次々に与えられたので、毎週20名以上のクリスチャン達が集まる様になりました。
それから、新たらしい集会場を探していた私達は、ようやく2年前、主の不思議な導きによって現在の北九州市小倉南区下貫の建物を見つける事ができました。私達は2008年の8月、この場所に移って、教会の名前を小倉聖書バプテスト教会に変更しました。
1985年の最初の集会から、既に25年たちました。途中で場所も教会の名前も集まっている人々も変わりましたが、ちっとも変わっていない事は一つです。
それはマタイ28:19~20とマルコ16:15に書いてある教会の目的です。「すなわち、福音を宣べ伝えて、あらゆる国の人々を弟子にして、彼等にバプテスマを授けて、そして彼等に神様の御言葉を教える事です。」
現在私たちは、次の様な伝道を通して、この目的に達する様、主の働きに励んでいます。
◆子供伝道(日曜学校) ◆婦人伝道
◆海外宣教(1992年、宣教師を台湾に派遣しました)
◆英会話伝道 ◆インターネットのホームページ伝道
◆福音BOX伝道(CD/本/トラクト) ◆チラシ配布伝道
◆ポスター伝道 ◆飾り付伝道(クリスマス)
キリストの再臨の瞬間まで、神様から頂いた目的を見失わないで、忠実に主に仕えましょう。
行 方 不 明

私の感想は「この242人の家族は一体どこにいるのか」という事です。記事の内容を読んでいくにつれて、私はさらにビックリしました。 「100歳以上の自分の家族は今どこにいるのか分からない」と答える人もいます。「わからない!」皆さんは、この事をどう思うかわかりませんが、私はこの「わからない!」と言う言葉は現代の社会の堕落を表わしていると思わずにいられません。
年配の方々に関する聖書の教えは対照的です。有名な十戒に「あなたの父と母を敬え」と書いてあります。(出エジプト記20:12)レビ記19:32によると「私達は白髪の老人を敬うべきです。」箴言23:22に「あなたの年老いた母をさげすんではならない」と書いてあります。

もし、人間が偶然に生まれた動物の様なものであれば、一人ひとりの存在は取るに足らないものですが、聖書に書いてある通りに、人間は神に創造された者であれば、私達は、年老いた方々を含めて、みんな生きがいのある存在です。詩篇8:4によると「神様は全ての人々を心に留めておられ、顧みて下さいます」から、年老いた父親を持って入る私達は彼等の存在を蔑ろにする事ができない筈です。
行方不明になっている242人の寂しい人生を考えると、私の心は悲しみでいっぱいになります。できる事なら、私は彼等を探し出して、すばらしい心理を伝えたいと思います。すなわち「家族に捨てられても、あなたを決してお捨てにならない方がおられます。あなたを愛しておられる神様です。」ルカ2:37に出る84歳のアンナと言う女性と同じように、年老いた私達は主の永遠の愛に答えて神様に仕える者となりましょう。
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