ごちゃごちゃの暗唱聖句

皆さんに覚えてもらうために、私は、この大事な箇所を今年の暗唱聖句にしました。毎週礼拝の後に私は皆さんの名前が入っているカードBOXの中から一人の名前を選びます。その人は立って、一人で暗唱聖句を言わなければなりません。その後、みんなが一緒に言います。
ある日曜日、一人の教会員は9節の途中まで暗唱聖句を正確に発表する事が出来ましたが、最後の部分に入った時、「倒されますが、滅びません」ではなく、「滅びますが、倒されません」と言ってしまいました。本人は気がつきませんでしたが、みなさんは笑いながら「違います」と言いました。
確かに面白い間違いでしたが、私達はその人に正確に言ってもらいました。なぜなら、その箇所が教えている通りに、キリストを信じている者は、度々倒されるかも知れませんが、絶対に滅びることがないからです。この真実を教える聖書の箇所は数多くあります。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」ヨハネ10:27-28
私たちは、そのごちゃごちゃの暗唱聖句を笑ったけど、もし第2コリント4:9に「倒されますが、滅びません」ではなくて、「滅びますが、倒されません」と書いてあったら、どのクリスチャンも笑いません。しかし、御言葉の中で神様は何度も約束しておられます。「滅びることがありません!」神様がイエス・キリストを信じる一人ひとりに与えて下さる永遠の命はその通りの命です。 永遠の命です。
レフト・ビハインド ?

「じゃあ、私達はレフト・ビハインド?」みんなは笑いました。次の瞬間に子供達が入って来たので、私達は安心しました。
レフト・ビハインド(Left Behind)とは6,300万部を売り上げたベストセラーです。黙示録に書いてある預言が実現して行く世界を描いた小説です。特に、キリストの再臨が起こった時、残された(Left Behind)人達の経験を中心に書かれた面白い本です。(まだ、読んでいないなら、ぜひ読んで下さい)
もちろんレフト・ビハインドの多くの内容はフィクションですが、キリストの再臨の時にある人々が残される事はフィクションでありません。聖書に書いてある真実です。「人の子(キリスト)が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、一人は残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです」マタイ24:37-42
取られる人とは、自分の罪を認めて、十字架の上で私達の罪のために死んでくださった救い主であるイエス・キリストを信じた人々の事です。残される人とは、キリストの再臨の時、まだキリストを信じていない人々の事です。残された人々は黙示録に書いてある預言の通りに「大いなる患難」という時代に入って、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、苦難を経験します。マタイ24:21
「じゃ、私達は レフトビハインド?」と言った先生は、冗談のつもりでそう言ったので、私達は笑いました。しかし、実際に残されてしまう人々にとって、これは冗談ではありません。「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから」マタイ24:44
酔 う 花

この花は、人間の心にも似ています。聖書によると、人間は生まれつき罪人です。エペソ2:3に書いてある通りに、私達は生まれながら自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行っています。すなわち、人間は罪をおかすから罪人になるのではなくて、生まれつき罪人であるから、罪をおかします。
では、生まれた時から罪人である人間の心の罪は何色でしょうか?多くの人々は「黒」と答えるでしょう。私も子供の時からそう思っていました。しかし、聖書のイザヤ1:18によると、罪の色は赤です。 なぜでしょうか。
赤は消えない色です。服にある他の色のシミを取り除く事は可能であるけど、赤いシミを完全に取り除く方法はありません。同じように、どんなに努力しても、人間は自分の心の罪を取り除く事ができません。罪で赤くなっている人間の心をきよめる事ができるのは一つしかありません。それは私達の罪のために十字架の上で死んで下さったイエス・キリストの体から流れたきよい血です。第1ヨハネ1:7に「イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます」と書いてあります。また、黙示録1:5によと、キリストは私たちを愛して、その血によって私達を罪から解き放って下さいました。
「酔芙蓉」と言う花の最初の色は白です。後で赤くなります。人間の心にある罪の最初の色は赤ですが、人は自分の罪を認めて、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる時、神様はその人の心をキリストのきよい血で洗って下さいます。酔芙蓉と違って、その人の心の最初の色は赤ですが、後で真白になります。「たとい、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」イザヤ1:18
今、あなたの心は酔芙蓉の朝の色ですか? 酔芙蓉の夕方の色ですか?
では、生まれた時から罪人である人間の心の罪は何色でしょうか?多くの人々は「黒」と答えるでしょう。私も子供の時からそう思っていました。しかし、聖書のイザヤ1:18によると、罪の色は赤です。 なぜでしょうか。
赤は消えない色です。服にある他の色のシミを取り除く事は可能であるけど、赤いシミを完全に取り除く方法はありません。同じように、どんなに努力しても、人間は自分の心の罪を取り除く事ができません。罪で赤くなっている人間の心をきよめる事ができるのは一つしかありません。それは私達の罪のために十字架の上で死んで下さったイエス・キリストの体から流れたきよい血です。第1ヨハネ1:7に「イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます」と書いてあります。また、黙示録1:5によと、キリストは私たちを愛して、その血によって私達を罪から解き放って下さいました。
「酔芙蓉」と言う花の最初の色は白です。後で赤くなります。人間の心にある罪の最初の色は赤ですが、人は自分の罪を認めて、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる時、神様はその人の心をキリストのきよい血で洗って下さいます。酔芙蓉と違って、その人の心の最初の色は赤ですが、後で真白になります。「たとい、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」イザヤ1:18
今、あなたの心は酔芙蓉の朝の色ですか? 酔芙蓉の夕方の色ですか?
WATCH OUT!

試合の間、ファールボールがスタンドに飛んで来た時「ファールボールに注意して下さい」と言うアナウンスがありました。そして、この日本語のアナウンスがあってから、2~3秒後、「WATCH OUT ! 」と言う英語のアナウンスもありました。私にとって、この事はかなり面白かった。なぜなら、ほとんどの場合、ボールが飛んできた後にアナウンスがあったからです。しばらくしたら、日本語のアナウンスと英語のアナウンスの間に私も大な声で「WATCH OUT ! 」と叫びはじめました。試合の間、一緒に行った先生はずっと私を見て笑っていました。
クリスチャンは日々の生活においてファールボールに注意する必要はありませんが、聖書の中で私たちは何度も目を覚まして注意するように警告されています。例えば、私たちはキリストの再臨の時を知らないから、絶えず主に喜ばれる信仰生活をするように注意されています。マルコ13:33に「気をつけなさい目を覚まして注意しなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです」と書いてあります。英語の聖書に「Watch」と書いてあります。
また、クリスチャンは自分の弱さを知っているから、目を覚まして注意すべきです。
マタイ26:41に「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」と書いてあります。英語の聖書に「Watch」と書いてあります。
また、諸々の悪霊と戦っているクリスチャンは対抗できるように目を覚まして注意すべきです。エペソ6:18に「そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして、また祈りなさい」と書いてあります。英語の聖書に「Watch」と書いてあります。
また、第1テサロニケ5:5~6によると、クリスチャンは世や暗闇の者ではなくて、昼の子どもですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしているべきです。英語の聖書に「Watch」と書いてあります。
日本語の聖書にも英語の聖書にも「foul ball」と言う言葉は書いていませんが、英語の聖書に「foul spirit」と言う言葉あは2回出ます。「汚れた霊」と言う意味です。いろんな方法で私達を誘惑しているこの悪の霊に注意しましょう。 WATCH OUT !
右側? 左側?

数分後、私達は久留米市に高くそびえ立つ観音像を見る事ができました。久留米市の南の方角で私達は道路からその観音像をよく見る事ができました。やはり道の右側でした。確かに、久留米市の北の方角から見ると、その観音像は道の左側にあると思うかも知れません。姉妹は見る方角によって判断し、観音像は「左側です」と言いましたが、鹿児島に住んでいる息子の家に行く時、その道路を走行する私は観音像が右側にある事を知っていました。
聖書のⅡコリント5:7に「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」と書いてあります。クリスチャンの信仰は私たちが思っている事ではなくて、私たちが知っている心理に基づいています。
例えば、私たちは神様が私達の人生の全ての出来事を通して働いておられる事を知っています。
ローマ8:28に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と書いてあります。
私たちは自分達が教会でしている奉仕は無駄ではない事を知っています。
Ⅰコリント15:58に「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」と書いてあります。
私たちはヨハネ14:1-3にある「キリストの約束の通りに、天に自分達の住まいがある事を知っています。」Ⅱコリント5:1に「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています」と書いてあります。
クリスチャンの信仰は、自分の思い「I think」の上に立っていません。 神の御言葉に対する確信「I know」の上に立っています。
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