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Oh~!イエス様を落とした! 

新年明けましておめでとうございます
今年もよろしくお願い申し上げます


ヨセフ 12月私は、ほとんど毎晩、教会の前にキリスト誕生のディスプレイを出しました。宿屋は大な風船で、電源コードをコンセントに入れると、自動的に膨らみます。次に私はヨセフの人形を出して、宿屋の中に入れます。その後、マリヤの人形をヨセフの隣に置きます。最後に、飼い葉桶の中で寝ているイエス様の人形をヨセフとマリヤの間に置きます。

クリスマス前の日曜日に人形を出した時、思いがけない事が起こりました。ヨセフとマリヤとの人形を無事に出す事が出来ましたが、イエス様の人形を持って行く途中、私の足が玄関で滑りました。自分を守るために、飼い葉桶を手放してしまい、その瞬間両手で手すりをつかみました。飼い葉桶は床に落ちました。床に足をついた時、イエス様の人形は飼い葉桶の中から落ちて、玄関に転がりました。もちろん、ただの人形ですが、私は困りました。
「Oh~!イエス様を落とした!」

しかし、イエス様を落とす事は初めてではありません。56年間の信仰生活の中で、私は何度もイエス様を「落とした」事があります。すなわち、私の足が罪に滑ったから、私はイエス様に喜ばれない事をしてしまいました。ダビデの経験と同じでした。
「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。」
詩篇73:2

私にも、「歩みは、滑りばかりだった」時がありましたが、この証しをする事が出来ます。主は一度も私を落しませんでした。私は何度も主を失望させた事がありますが、主は一度も私を失望させませんでした。
ローマ人への手紙10:11に書いてある通りに、
「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」


英語の聖歌に、この賛美があります。
♪Jesus never fails, Jesus never fails,
  Heaven and earth may pass away, But Jesus never fails.

日本語に訳すと(天と地は滅びるかも知れません、イエスは決して私達を失望させません)

今年も私達はイエス様を(落とす)でしょう。しかし、この素晴らしい真理を心に留めましょう。
2012年にも主は
私達を一度も落しません。

悲しい喜び 

Christmas 1968年の日本は、ほとんどクリスマスに関心のない国でありました。この43年間に日本はアメリカのクリスマスの習慣を多く取り入れるようになりました。昔はクリスマス飾り等はあまり見る事はありませんでした。
現在は街や店や家ではクリスマスのイルミネーションを点灯しています。
当時、カードと言えば年賀状しかない日本でしたが現在では、多くの文具店等でもクリスマス・カードを売っています。

先日、ショッピング・モールに行った時、BGMで聞こえてきた音楽は山下達郎さんの美しい「クリスマス・イブ」という曲でした。私はこの曲が大好きです。

♪雨は夜更け過ぎに 雪へと変わるだろう
   Silent night, Holy night,
♪きっと君は来ない ひとりきりのクリスマス・イブ
   Silent night, Holy night…


この曲の後に、有名なクリスマス・キャロルの素敵な音楽が流れてきました。「Joy To The World」という賛美歌でした。この曲を聞いた時、私は喜びました。しかし、ちょっと悲しい喜びでした。なぜなら、その曲を聞いていた人達はこの曲を知っているのに、この曲の歌詞を知らないからです。

♪民皆喜べ 主は来ませり 心を備えて
      いざ迎えよ いざ迎えよ いざ いざ 迎えよ
♪地に下りませり 救い主は 野山も 流も 声上ぐべし  
      声上ぐべし 声 声 上ぐべし……


クリスマスは救い主であるイエス・キリストの誕生を祝う日です。英語の「Christmas」を日本語の「クリスマス」に翻訳した人に不平を言いたいと思います。本当は「キリストマス」であるべきです。「CHRISTmas」です。今やクリスマスの中心は飾りやカードやプレゼントやケーキです。「キリストマス」の中心は十字架の上で私達の罪のために死んで下さったイエス・キリストです。今の日本の「クリスマス」はキリストを省いた「   マス」に過ぎません。

もちろん、クリスマスの習慣を楽しんでもいいんです。飾り、ケーキ、カード、プレゼント等はとても楽しい習慣です。
しかし、クリスマスから受ける喜びはこれで終わったら、それは悲しい喜びです。
なぜなら、クリスマスの本当の喜びは羊飼い達に現れた御使いの言葉にあります。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 ルカの福音書2:11

「お代わり」の信仰生活 

感謝祭 毎年11月の第4木曜日にアメリカの祝日があります。神様に感謝を捧げる感謝祭です。
また、家族と一緒に集まって特別な食事をする日です。
今年、私は佐世保のライトハウス・バプテスト教会の兄姉と一緒に感謝祭を祝いました。

豊富な食事でした。大きな七面鳥が三羽ありました。それに、ハム・ポテト・グラタン・グリーンピース・トウモロコシ・マッシュポテト・サツマイモ・サラダ・ブロッコリー、クランベリーソース・ミカンと他に色んなごちそうもありました。

私は好きな料理を沢山取ったので、私の皿はごちそうの山になりました。それを食べてから、私はお代わりをしました。特に、七面鳥とクランベリーソースを沢山食べました。その後、デザートを選ぶ時間になり、14種類のケーキとパイがありました。私は大好きなパンプキンパイを戴きました。
そして、帰る時、私はもう一回皿をいっぱいにして持って帰りました。それを夜に食べるつもりでしたが、あまりにも満腹だったので、何も食べる事ができませんでした。

やはり、感謝祭の様な食事をする時、お代わりとお持ち帰りをしないのはもったいない事です。

同じ様に、お代わりをしない信仰生活も、もったいない事です。
なぜなら、聖書によると、私達の主はケチな御方ではありません。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」エペソ人への手紙1:3
第1テモテ6:17によると、「神様は私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださいます。」

私達クリスチャンも霊的に飢える必要はありません。エペソ人への手紙3:20によると、「神様は私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる御方です。」

さらに、第2コリント人への手紙9:8に、「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」と書いてあります。

祝福の一皿だけで我慢する信仰生活ではなく、心に神様の愛と喜びと平安と愛のお代わりを戴く信仰生活をしましょう。

行方不明のリンゴ 

林檎 先週の月曜日に一人の姉妹のお母さんから電話がありました。
「先生 リンゴは届きましたか?」私は答えました。「リンゴですか?いいえ」 お母さんは言いました。「先生にリンゴを送りました。もう届いているはずですが……」 私は答えました。「まだですが、今日届くでしょう。明日までに届かなければ、私が電話します。」

その後、リンゴを送った長野県の店から電話がありました。「リンゴは届きましたか?」私は答えました。「いいえ、まだです」

そして、木曜日に直接その姉妹から電話がありました。「先生リンゴは届きましたか?」私は答えました。「いいえ、まだです」
突然、私は先週の土曜日に2個の荷物が届いていた事を思い出しました。福岡のライフセンターから本を沢山注文したので、私は箱の中身が両方とも本だと思い込んでいたのです。姉妹に「ちょっと待って下さい。もしかしたら!」と言いながら、私はその2つの荷物が置いてある部屋まで行きました。上の箱の中身は本だったけど、下の箱に大な字で「りんご」と書いてありました。

土曜日から木曜日まで行方不明のリンゴはすぐ目の前にありました。姉妹のお母さんも長野県の店の方も姉妹も探していたリンゴは私のすぐ側にありました。

同じ様に、多くの方々が探している真の神様も私達のすぐ側におられます。
使徒の働き17:27「確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」と書いてあります。

多くの方々は神様を探すために寺や神社に行きます。しかし、本当は神様が私達を探しておられます。ルカの福音書19:10によると、イエス・キリストは「失われた人を捜して救うために来たのです。」 一人ひとりと個人的な交わりをしたい神様は私達の目の前におられます。

英語に「God is only a prayer away.」という言葉があります。どうぞ祈って見て下さい。そうすれば、申命記4:7に書いてある言葉は真実だと分かります。
「まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。」

クロスロード 

クロスロード 毎月、鳥取市に住んでいる外国人に英語で聖書を教えるために私は北九州の牧師ご夫妻と一緒に行きます。
11月の集会に出席した人たちはアメリカ人、韓国人、ジンバブェー人と日本人でした。
もちろん関門橋を渡って私達は山口まで中国自動車道を通ります。途中、中国自動車道は山が多いので、山口市の近くで山陽自動車道に入り、広島までその道を通ります。
広島市の近くで、また中国自動車道に戻ります。山陽自動車道と中国自動車道のクロスロードに2つの大きな標識があります。右の標識には「大阪」と書いてあります。左の標識には「北九州」と書いてあります。そこで私はいつも牧師ご夫妻に聞きます。「さあ、どうしますか。鳥取に行きますか。九州に帰りますか?」笑いながら、彼らは必ず「鳥取に行きます」と答えます。


少なくても1回くらいクリスチャンは信仰生活のクロスロードに着きます。その時点で私達も決断しなければなりません。すなわち、神様を中心とする生き方を目指して前進しますか。あるいは、クリスチャンになる前の自己中心の生き方に後退しますか。このクロスロードに着いたパウロはこの決断をしました。
「私は、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
ピリピ人への手紙3:13-14

試練に遭う時、ある人々は神様と教会から離れます。聖書は神様から離れる誘惑に遭っている人に警告します。
「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。」第2ペテロの手紙2:20

もし、あなたが今、信仰生活のクロスロードに立っているなら、ヘブル人への手紙6:1の勧めに心を留めて下さい。
「私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」

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