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イエロー・ライト 

信号機の歴史を知っていますか?最初の信号機は1868年にイギリスで出来たそうです。赤と青だけのランプでした。最初の電気の信号機は1912年にアメリカで出来たそうです。やはり赤と青だけでした。3つの色を使う最初の信号は1920年にアメリカの警官によって作られたそうです。
信号機 信号の色の意味を知っていますか?赤と青は簡単です。赤は「止まれ」です。青は「進め」です。
黄色の意味は何ですか?ほとんどの運転手は黄色の意味が「赤になる前に急げ」と言う意味だと思っています。本当は「注意!信号はすぐ赤に変わるから、止まる準備をしなさい」と言う意味です。

私は「赤になる前に急ぐ」と言う意味だと思っている一人です。もちろん、私は黄色の本当の意味を知っていますが、黄色を見る時に、私の最初の反応は止まる準備をするのでなく、赤になる前の急ぐ準備です。ある日そうした時、後の車が警察の車だったので、私は信号無視の罰金を払わなければなりませんでした。

信仰生活にも黄色の信号があります。私達が歩もうとしている道が主に喜ばれない道である時、主はいろんな方法で私達に注意します。聖書や聖霊や牧師の説教や人生の出来事を通して主は私達に注意を与えます。その黄色の信号を無視する人の罰ではないでしょうか。

「わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。それで、彼らは自分の行ないの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。」
箴言1:24-25、31

先日、私は「イエロー・ライト」と言うバンパー・ステッカーが付いている車を見ました。その意味が分かりますか?この車は「イエロー・ライト」で止まるという意味です。私達は神様の「イエロー・ライト」で止まるクリスチャンになりましょう。そうすれば、主の約束があります。

「わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」箴言1:33

PITY PARTY 

落ちこむ事がありますか? 落ちこむ時、自分をかわいそうと思いますか? 日常、私は賑やかな人ですが、自分をかわいそうに思う時もあります。
Pity Party 英語に「自分をかわいそうに思う」事を意味するおもしろい表現があります。「To have a pity party」です。
自分をかわいそうに思って、自分の生活状況についてブツブツ言う事です。

先日、私は「pity party」の途中でした。ちょおどその時わたしは「The Brothers Four」の歌を聞いていました。「Nobody Knows The Trouble I’ve Seen」と言う曲でした。私も大な声で彼等と一緒に歌いました。
「Nobody knows the trouble I’ve seen.  Nobody knows my sorrow.」(誰も私の困難を知りません。誰も私の悲しみを知りません)と言う意味です。

突然、聖霊なる神様は私に「ウソです」と仰って、そして私に聖書の箇所をお思い起こさせて下さいました。
ヘブル人への手紙4:15でした。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
その通りです。クリスチャンの大祭司であるイエスは私達の困難も悲しみも知っておられます。

この素晴らしい真理を知っている私達は何をすべきでしょうか?
まず、信仰の告白を堅く保つべきです。(ヘブル人への手紙4:14)
そして、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくべきです。(ヘブル人への手紙4:16)

今度、自己哀れみにおぼれている時、ヘブル人への手紙4:14~16を読みましょう。

そして「The Brothers Four」の歌ではなくて、この讃美を歌いましょう。

  (私が悩むときも 1節)……リビングプレイズ33番

 わたしがなやむときも、日々ちからをあたえ
    あふれるめぐみを主は、みたしてくださると
    しんじてわたしはいま、すべてを主にゆだね
    よろこびにみたされて、この日もすごします。


庭の中の滝 

先週の金曜日、私は午前8時30分から出かけて留守でした。ようやく夜9時頃家に帰って玄関に近づいた時おかしな音に気がつきました。滝の様な音でした。
水道管 もっと玄関に近づくと私はその滝の音が自分の庭からだとわかりました。私は思いました。「滝?庭に滝があるはずはありません。いつから家の庭に滝があったのでしょうか?」

私は家から懐中電灯を持って来て、その滝を探しました。滝ではありませんでした。
破裂した水道管から溢れている水の音でした。私は急いで元栓を止めて電話し、修理を依頼しました。
修理の方はすぐに来て来れました。彼は破裂した水道管を外してそして新しいのを取り付け、その水道管にテープを巻きました。修理が終わった時、もう11時過ぎでした。

人生は破裂した水道管の様になる時もあります。それは悲しい出来事の故に私達の心は破裂し、そして生きる力は徐々に流され、なくします。

詩篇31:12
にダビデはこんな経験をこの言葉で説明しました。
「私は、こわれた器のようになりました。」

エレミヤはこの言葉を使いました。
「私の心は、うちに砕かれました。」エレミヤ書23:9

人生がこんな状態になる時、人間は心の修理を宗教や哲学や心理学に頼るが、その様なものには心を癒す力がないとわかります。しかし、イエス・キリストには心をいやす力があります。

イザヤ書61:1
によるとキリストは「心の傷ついた者をいやすために」来られました。

心が破裂した水道管の様になっている時、神様に助けを求めましょう。
「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」詩篇34:18

「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。」
詩篇147:3

通用しないクレジットカード 

ある日曜日に私は宣教サポートを送って下さる教会で3回メッセージをしました。夜にその教会は私をホテルに泊めて下さいました。月曜日の朝に私は近くのレストランで朝食を食べて、そして部屋にもどる途中セルフのガソリンスタンドに寄りました。

Credit Card クレジットカードを給油機に入れた時、このメッセージがモニターに現れました。「カードを入れ直して下さい」私はカードを抜いて、もう一度入れ直しました。モニターに同じメッセージが現れました。私はカードを入れ直しました。
今度は違うメッセージがありました。「店員の所に行って下さい」
スタンドの店員の所に歩きながら私は給油機に対してブツブツ文句を言っていました。
「全くイヤな機械だ!一番キライな事はやるべき事をやらない機械だ!」店員に「給油機の調子がおかしいよ!」と言ったら、彼は答えました。「給油機に問題はないよ。もう一度カードを入れて見て下さい」
まだブツブツ言いながら、私は給油機に戻りました。カードを入れる前に、私はカードを見て恥ずかしくなりました。
私が給油機に入れようとしているカードはクレジットカードではなく、ホテルの部屋のキーカードでした。

そのキーカードはクレジットカードに似ていました。私が見ないで、そのカードを手に取った時、クレジットカードと同じ大きさであったキーカードはクレジットカードとそっくりのデザインでした。
しかし、そのキーカードには給油機を動かす力はありませんでした。

気落つけないと、教会の働きは給油機に部屋のキーカード入れる事と同じよおな結果になります。つまり、教会に来る人々の心を動かす力がない働きです。
聖書は「福音は、救いを得させる神の力です。」と述べています。ローマ人への手紙1:16
キリストの言葉もあります。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」マルコの福音書16:15

教会は伝道以外の活動にも参加してもいいが、伝道以外の事が教会の働きの中心になる時、その教会は人々に救いを得させる神の力を失って、給油機に入れたホテルの部屋のキーカードの様なものになります。

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