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ブレーキを踏んでくださる神様 

私は、もう72歳ですので、運転免許証の更新するために自動車学校に行かなければなりませんでした。
まず、講習とDVD鑑賞がありました。その後、私の反応能力を調べるテストがありました。ゲームセンターにあるようなゲーム機によるテストだったので、面白かったけど難しいテストもありました。
最後に私は車を運転しなければなりませんでした。

免許証の更新 運転に自信があるので私は自動車学校のコースを上手に進みました。
途中で一時停止標識があり車を止めて左右を見て、右から車が来ていましたが、かなり遅いスピードで走行だったので、アクセルを踏んで行こうとしました。
しかし、車は動きませんでした。 もう一度アクセルを踏みましたが、車は全く動きません。
その時、自動車学校の教師が言いました。「私がブレーキペダルを踏んでいるので、動かないよ」私は、車が来ているのに、行っても大丈夫だと判断したが、教官は逆の判断だったので、ブレーキを踏まれたのです。

神様も同じような事をする時があります。
クリスチャンは自分が決めた道に進もうとしますが、その道は主の御心ではないなら、神様はブレーキを踏んで、彼を行かせてくださいません。

詩篇37:23に、
「人の歩みは主によって確かにされる。」と書いてあります。
英語の聖書に
The steps of a good man are ordered by the Lord.
  と書いてあります。

ある人は言いました。
The stops as well as the steps of a man are ordered by the Lord.
「人の歩むことも止まることも主によって確かにされる。」

「人は心に自分の道を思い巡らす。
  しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」
    箴言16:9

信仰のマラソン 

2月8日に“北九州マラソン2015が行われました。
11,378人のランナー中、10,016人がフルマラソンに挑戦しました。
その一人は教会の兄弟でした。
彼は日曜日の集会を休みたくなかったけど、どうしても走らなければならない状況でした。

Marathon 私は、彼にマラソンの途中で足のケガをしたふりをして教会に来る事を勧めましたが、勿論クリスチャンはそんな事をしてはいけません 私は彼に言いました。

「どうしても走らなければならないなら、背中に教会の案内ポスターを貼って、テレビカメラの前を走る時、背中をカメラに向けてゆっくり走ってください。」

聖書はクリスチャンの信仰生活をマラソンに例えています。
 ヘブル人への手紙12:1
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と書いてあります。

「競走」と翻訳されているギリシャ語の単語は“Agona”です。
“Agona”の意味は激しい苦しみですから、この箇所が入っている競争はすぐ終わってしまう100mのような競争ではありません。
マラソンですから、聖書に書いてある通に、私達は走り続けなければなりません。走り続けるために、私達は「まつわりつく罪」を捨てなければなりません。
「まつわりつく罪」はクリスチャンの競争を妨げるものです。

パウロはガラテヤの信者達にこの質問をしました。
「あなたがたはよく走っていたのに、
       だれがあなたがたを妨げて、
          真理に従わなくさせたのですか。」
             ガラテヤ人への手紙5:7

自分の競争を妨げる罪があれば、クリスチャンはその罪を止めなければなりません。
また、自分の信仰生活を妨げる人がいれば、その人から離れなければならないかもしりません。

パウロは、Ⅱテモテへの手紙4:7で、この証しを書きました。
「私は勇敢に戦い、
    走るべき道のりを走り終え、
             信仰を守り通しました。」

私達も、同じような証しが出来るように走り続けましょう。

OH NO! 

佐世保に行く途中、私はマクドナルドのドライブスルーでハンバーガーを買いました。
運転しながら、私はそのハンバーガーを食べていると、突然ケチャップがワイシャツに落ちました。
私は急いでティッシュでワイシャツを拭きました。
しかし、小さなシミはもっと大きなシミとなりました。
OH NO!」

OH NO!なぜOH NO!」 だったかと言うと、その夜、私は佐世保教会の集会に出なければなりませんでした。それだけではありません。
次の日に私は告別式に出席しなければなりませんでした。そして更に、そのシミが付いているワイシャツのまま、皆の前に立って告別式のメッセージをしなければなりませんでした。
家に帰って着替える時間がなかったので、私はコンビニに行って、洗剤を買い、洗面所に入ってシミを取る努力をしました。
ワイシャツは少し綺麗になりましたが大なシミは、まだ残っていました。

その夜の集会と次の日の告別式に出た時、そのシミを隠すために、私はネクタイを右端に寄せて、そして最後まで上着の全てのボタンを掛けたままにしました。

ワイシャツのシミを隠そうとしている私の姿は自分の心にある「罪」のシミを隠そうとしている多くの人々の姿です。
宗教や良い行い、綺麗な外見を通して彼らは一所懸命神様と他の人々から自分の罪を隠そうとしています。
人々から隠す事が出来ても、誰も自分の罪を神様の目から隠す事は出来ません。

聖書によると
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」
Ⅰサムエル記 16:7

ヨブ記
  34:21 によると
「神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ている。」

また、へブル人への手紙
  4:13
「神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、
すべてが裸であり、さらけ出されています。」
と書いてあります。

心にある罪のシミを取り除く方法は一つしかありません。
十字架の上で私達の罪のために死んで下さったイエス・キリストを信じる事です。
聖書によると、人が自分の罪を告白して、イエス・キリストを自分の救い主として受けいれる時、
「イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
Ⅰヨハネの手紙  1:7

NEVER ALONE 

孤独を感じる事がありますか?
Newsweek と言う雑誌のリサーチによると25%のアメリカ人がよく孤独を感じるそうです。
7年前に私の妻が突然、天国に召されました。その時から私は、ほとんど毎日孤独を感じています。しかし、この7年間に私は一人ぼっちになった事はありません。
一人なのに、一人ぼっちではありません。 なぜでしょうか。

NEVER ALONE 英語の2つの単語で説明しましょう。
Lonely 
Aloneです。
Lonely の意味は寂しいです。
Alone の意味は一人ぼっちです。
私はよく Lonely ですが、私は決してAlone ではありません。
なぜなら、私が信じている救い主であるイエス・キリストはいつも
私と共におられるからです。

日本の聖歌に「主は捨てたまわじ(612番)」
と言う賛美があります。
この賛美の英語のタイトルは Never Alone です。
英語の繰り返しの歌詞はこのようになっています。
No, never alone, (決して一人ぼっちにならない)
No, never alone, (決して一人ぼっちにならない)
He promised never to leave me,
Never to leave me alone.
  (キリストは私を一人ぼっちにしないと約束されました。)

マタイの福音書28:20にキリストの約束が書いてあります。
「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

また、詩篇23:4でダビデはこの有名な言葉を書きました。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」

キリストを信じている皆さん、
ぜひ、この素晴らしい真実を覚えて下さい。
あなたも、私と同じように、よく孤独を感じるかも知れませんが、
あなたは1秒間でも一人ではありません!

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